-2011.3.5-
河合寛次郎記念館」見学会
河井寬次郎とは
子供の様に感動する心を失わず、ありとあらゆる物と事の中から喜びを見い出し人と人生をこよなく愛した人です。寛次郎は民芸運動の中心人物の1人でも有りました。 民芸運動といえば用の美、無名性の美を思い起こします。(ウイリアムモリスのアーツ&クラフツ運動も生活と芸術を一致させるという思想で柳宗悦もこの影響を受けていたようです。)そんな寛次郎が暮らしながら作品を創っていた空間を体験する事でそこに流れる「何か」を感じる事が出来るか非常に楽しみでした。
フォルマが感じたこと
街並みにとけこむ外観、こだわりが行き届いた設計
住居兼工房は、今から73年前の昭和12年(1937年)に自らの設計で建てられ東山五条付近に現存しており、設計にあたっては飛騨の民家や地方の民家を見て廻り参考にしたようです。 工事は大工だった実兄達を島根から呼び寄せ建てられました。 外観は平入りの屋根に犬矢来や格子といったしつらえで景観にとけこんでいますが、良く見ると1Fより2Fがせり出しており(オーバーハング)町家とは明らかに違います。2階を支える構造部材の組み方(腕木)が印象的で力強さを感じました。 組み方は理に適った組み方で寛次郎がここまで指示したのでしょうか?父親も大工だったので案外、木の組み方や納まりは感覚的に分かっていたのかもしれません。 施工技術を分かっていないとこのような造形は職人さんたちの通常の納まりとなり様式に近いものとなります。やはり寛次郎はこのような部分も指示して造らせたのだと思います。
コミュニケーションの場ともなった仕事場
平面計画は中庭を取り囲むように母屋(住宅部分)と仕事場が間口に対して相対しており、京町家の奥行方向に中庭をとる様式とは異なります。 土間に面して客間兼居間(サロン)が有りそこを中心に家族の個室が配されていてサロンからは中庭が望めます。中庭は仕事場の一部でもあったようで、仕事場と暮らしを繋ぐ場のようにも感じました。 ここに出入りした多くの文化人や客人たちと寛次郎はコミュニュケーションしながら仕事をするという目的のための平面計画ではないかと思います。 日に平均20人の来客が有り、長期滞在する人もいたとか。人をもてなすという事も寛治郎の暮らしの中では重要なウエイトを占めていたのでしょう。 使われている構造部材は町家に比べるとかなり大きな材が使われていて町家のスケール感とは明らかに違うダイナミックな空間構成です。柱スパンは広く、階高も高くとってあることと思います。 そしてその部材の素材感が生きる仕上げ、柱はナグリ仕上げ(チョンナという削る道具で削ってある)梁も太鼓の形状の立派なものが使われておりそこはかと主張する感じを受けました。
作家の手練の跡を感じる調度品
調度品や作品は展示してあるというより暮らしていたままに置かれているようです。 柳宗悦の柱時計、濱田庄司の箱階段も建築と呼応し、素を尊んだ寛次郎のしずかな精神が全体を包んでいるように感じ、様式ではない日本の素の無名の美がそこにはあるように感じました。 今の表層操作によるきれいで薄い無機的なデザインとは対極にある作家の手練の跡。 ともすれば表出しすぎて暑苦しく感じるどころか静謐ですがすがしさを感じ、身体的で人間味が有り既視感の有る造形が時を経てこの現在の社会において豊かさ、美しさの基本軸を訴えかけているように存在感を放っていました。
見学を終えて
河井寬次郎記念館のホームページ
http://www.kanjiro.jp/
※見学の予約はホームページより可能です。