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-2023.10.23-
子供との会話で思ったこと
高校三年生の娘と買い物帰りの車中での会話
新しく開発されて家が建ち始めた住宅街を見て話す娘。
娘 「なあなあ、あの風景見てるとなんでか知らんけど残念で悲しくなるねん。
小さな土地にぎゅうぎゅうに立ってるやん
古い建物も余っているのに活かして使う事をなんでしいひんのかな?
せっかく自然いっぱいのいい景色があるのにそれを活かすように見えへんねんな、残念やわ・・・」
父 「そうやな! 考えたことがあるけど行きついたのは
売る方の都合で経済的に合理的な土地の割方(区画)や建て方になって、人が暮らすうえで大切な家の在り方を考える事が抜け落ちていること、結果多くの人がそういう家を選択するようになっているからやと思う。」
娘「私はそんなところ選ぶのいややわ」
父「日本では自分の暮らしについての学ぶことが少ないし、家の暮らしの在り方について考える機会が少ないから、日々過ごす時間をどんな場所で過ごすのがよいか考えることが少ないのかもしれへんね」
娘「うちの家は木があっていろんな居場所があって気分に合わせて居る場所を選べるやろ・・・・」
そんな内容でした。
そこから氣づいたのは、子供が暮らす家について客観性を持ち、自分の氣持ちがどうなのかという視点を持つことは稀なのかもしれないという事。
たまたま、建築設計している親の家に生まれてきて、物心ついた頃からFORMAの完成見学会で様々な家を体験し、自宅は設計の実験場のような家なので色々な仕掛けがあり築18年経った今もライフスタイルが変わることも許容しながら変化に対応するような家。
夫婦の会話も自ずと家や建築の話題が多い家に育ってきた娘は家の在り方を非常に客観的に捉え、自分ならこうしたいという望みまでが出てきている。
一般的に家について考えるタイミングというと家を建てようと思う時期に始まるのではないかと思います。(以前子供の頃から家の間取りが好きで広告ばかり見ていたというかたもいらっしゃいました^^)
住むところは子供に選択の余地はなく親の都合で決まることがほとんど。
そこでの一日、一日の積み重ねが今の自分の体感をつくっていると考えた時。
自分の身体感覚や記憶という事は積み重ねられても、日々の暮らしを客観的に捉える機会というのは極めて少ない。
忙しい子供たちにとっては友達の家に行くくらいのものではないかと思う。
いやそれ際も最近は少なくなっているように感じます。
そうして大人になり自身で住むところ考える時に初めてどんな家に住むかと考える。
判断基準は家賃、価格、機能性、便利さ等目に見える数値的なものが判断しやすく、共有しやすい。
一方、自分や家族が住んで氣持ちよさ、居心地というのは見えないものなので判断基準にはなりにくい。
でも、娘はきっと自分の氣持ちを大切にした暮らす場所を見つけるのだろうなと思いました。
小学生低学年の頃 「私が大人になったら家の設計してや!」と言っていたことを思い出し、
会話後にホームページのワークスを見て 「良い家つくっているな!」らしいです^^
が手強い施主になりそうです。