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-2024.1.25-
山と雑木と暮らし
先週、第5期工事の打合せで、里山で暮らす家を訪れました。山盛りの薪に目が釘付けです。
山にはいり大きく成長した木を切りだし、薪ストーブ用、ホダ木用、風呂焚き用、焚き付け用、一本の木のどこも無駄にすることがなく、それぞれを使い勝手にあわせて切り揃え、きれいに整理整頓され積まれていました。
92歳のおばあちゃんも、保育園児の孫たちも、薪にする、束にする、運ぶ、寝かす、使う、他にも多々あるだろう作業のどこかしらに関わって、子どもたちは遊びの中で山や木との付き合い方を覚えていくのでしょうね。
子どもたちが、薪を束にしている様子を動画で見せてもらいました。なんとも楽しくてしょうがない様子に、見ている私まで思わず笑ってしまいました。作業ではなく、子どもたちには楽しい遊びなんですね。束は薪を数本ずつ束ねてあるだけのように思いますが、組み合わせを見る目がいるようです。遊びながら、そんな目が養われていくのだと思います。
薪割りが上手な人が割った薪は束にしやすいそうです。それってどういうことなんでしょう。不思議ですね。こういった体験でしかわからない感覚、頭で考えない、知識ではない、体験や経験。木のにおい、手触り、重さ、木目の様子、割れる音、それらを感じる心や身体。頭で考えてばかりの生活ではわからないでしょうね。
数年前に、ここのご主人に冬の雑木の山に連れて行ってもらったことがありました。初めての冬の広葉樹の山。感じたことのない美しさにとても感動したのを思い出します。
葉っぱの落ちた雑木、木漏れ日、暮らしとつながった山、なんとも表現しにくい五感以上のものを感じる体験でした。
2月6日(火)に、また連れて行ってもらうことになりました。ご主人に山のお話しをお聞きしていると、「山の神様」という言葉が時々聞こえてきます。人が本来持っていたであろう感覚は、自然と近くなることで取り戻しやすくなるのかもしれません。興味のある方いらっしゃいませんか。